在家略修証義本文 1

在家略修証義本文 1

 

「生を明らめ 死を明らむるは 仏家 一大事の因縁なり」

(しょうをあきらめ しをあきらむるは ぶっけ いちだいじのいんねんなり)

 

 

「生を明らめ 死をあきらむるは」(しょうをあきらめ しをあきらむるは)

 

「明らめ」(あきらめ)

明らかにするといういみです。昼の太陽、夜の月の様に、それがあるから闇が照らされて物が見える状態のことで、光があるがゆえに真実がはっきり見えるという意味になります。

 

「生」(しょう)

生まれるという意味と生きるという意味の両方があります。生まれてくることの意味、生きることの意味というのを、明らかに理解するということが、「生を明らめ」となります。

 

「死を明らむる」(しをあきらむる)

これも同じで、死について明らかに理解するという意味です。生まれること、生きること、死ぬことについて明らかに理解するのが、「仏家 一大事の因縁なり」ということになります。

 

 

「仏家 一大事の因縁なり」(ぶっけ いちだいじのいんねんなり)

 

「仏家」(ぶっけ)

仏道修行をしている人は、1つの家の家族のようなもの、だから仏家といっています。

道元はよく、仏家の家風というものの言い方をします。家風というのは、その家に生まれ育ったら当たり前に生きる生き方。なぜ、そういうことをするのですか?という問いに対して、理由を説明できる場合もありますが、これが当家の家風だからという形で説明する場合もあります。

仏道修行はこういう風にやります、他に色んな正しい修行があるかもしれないけれど、仏道の修行は、こういうやり方で進んでいきます。というのが仏家の家風となります。

 

「一大事の因縁なり」(いちだいじのいんねんなり)

仏教徒として修行して行くのに一番大事な事は、生と死を理解する事です。

「因縁なり」(いんねんなり)

因は原因、縁は条件です。原因があってその結果を出す条件が整った時結果を生むという形で、因果になります。因は条件、果は結果です。因があれば必ず結果が成立するかというと、原因が条件を得た時に結果が成立します。因縁と因果というのは、因と縁と果という3つによって全ての現象が成り立って行くということの、2つを組み合わせたのが、因縁であり因果です。

 

原因を種として、縁を太陽と水と二酸化炭素と考えれば、結果として花が咲いたり実がなったりするのが結果で結果の果は果実となります。

種があれば必ず花が咲いて実がなるかというと、太陽と水などの条件を得て初めて芽が出て育って、花が咲き実がなる。だから、因があれば必ず結果が出るかというとそうではありません。

太陽と水と空気があっても、種を蒔かなければ結果は出ないでしょう。条件さえ整えれば必ず結果がでるかというと、原因がそもそも無ければどんなに条件を整えても結果は出ないのです。種に夢中になって良い種ばかり求めて、お金が尽きたら種だけが残ってしまって、花も実も手に入らない。

また逆に、種がないのに夢中になって良い土を作ったり、水をやったり、太陽が照る事を一生懸命頑張って条件を作っても、種を蒔いていなければ何も生えてこないわけです。

因と縁、因と果という3つの条件で物事が結果を出して行くというのが、仏教の基本的な考えで、

現象について、因は揃っているけれど縁が足りないとか、縁は十分あるけれど因が無いが故に結果が出ないとかというふうに分析して行きます。そういう分析的に物事を観察し理解して行く中で、世間的に、正しく生きたり、有能になったり、人の手助けが出来るようになったりして行き、人間としての、生まれる事、生きる事、死ぬ事についての理解が深まって行きます。その延長線上に、生まれる事、生きる事、死ぬ事からの解放の道筋が見えてくるのです。

 

仏教では、死んだ後の世界を信じるとか、信仰が大事なわけではありません。あるか無いかわからないものを信じるのでは無くて、今、生きている中でずっと見続けている、生まれること、生きること、死ぬこと、それを正しく観察するならば、当然の結論として、死んだ後いきなり全てが終わるということは、とても不自然な事になります。

全ては、原因があって結果があるわけなので、生まれるのも原因があって生まれ、生きるのも原因があって生き続け、死ぬのも原因があって死に、というふうに物事が成り立っているというのは、世間を観察していれば明らかなわけです。