在家略修証義解説「普回向・在家略回向」 

はじめに開教偈(かいきょうげ)を唱えてから、在家略修証義を唱えます。そして、最後にその経典読誦ここでは、在家略修証義の功徳が全ての人々、全ての生命体に及びますようにと願う回向文でしめくくります。

 

普回向・・・・・あまねく回向するという回向文で、一番オールラウンドに使えます。

在家略回向・・・自分の家族、親族、友人、知人、ご先祖様のようにターゲットがしぼられています。

 

 

普回向                                                         

願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我らと衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを。

(ねがわくはこのくどくをもって、あまねくいっさいにおよぼし、われらとしゅうじょうと、みなともにぶつどうをじょうぜんことを)

 

 

「此の功徳を以って」(このくどくをもって)

「此の」(この)というのは、私が先ほど読んだ経典読誦の功徳をという意味になります。経典を読誦することは功徳になりますという前提がそこにあります。

 

「普く一切に及ぼし」(あまねくいっさいにおよぼし)

自分が先ほど読んだ経典読誦の功徳が、自分の中に留まることなく、自分の意識できる全ての生命体にその功徳が及んで欲しいといということです。

「一切」(いっさい)は、「一切衆生」(いっさいしゅじょう)の「衆生」(しゅじょう)が略されています。「衆生」(しゅじょう)は、全ての生命体のことで、狭い意味では、全ての人間、もうちょっと広くなると私の見ることの出来る全ての人間とそれ以外の地球に生きている動物となります。更にもっと広い意味では、天界の神々から地獄の生命体までの、六道輪廻の中から抜け出していない生命体となり、そこには、神々から妖精、地獄の生命体から、私たちの普通の人間が見ることの出来ない生命体も含みます。自分の意識できる範囲内で、「一切衆生」(いっさいしゅじょう)というのを唱えます。

 

「我らと衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」(われらとしゅじょうと、みなともにぶつどうをじょうぜんことを)

そして、その功徳が及んだ結果、「我ら」(われら)というのは、経典を読誦している私たちのこと、そして「一切衆生」(いっさいしゅじょう)がその功徳の助けによってより速やかに「仏道を成ぜんことを」(ぶつどうをじょうぜんことを)と祈ります。この「成ぜん」(じょうぜん)という言葉は、成就する完成するの意味の「成ずる」を「〜せん」という決意の語尾変化させたもので、祈る者達と祈られる者達の両方が、最終的には解脱を得る、悟りを得るということを祈願している内容となっています。

 

 

自分の経典読誦の功徳が、他の生命体に影響を与えることによってより早く最終的な解脱悟りに到達し、苦しみからの完全なる解放を達成することができますように、というのをここで「願わくは」(ねがわくは)「ことを」で祈りの言葉として捧げていることになります。自分だけが幸せになればいいという考え方こそが、幸せになれない大きな理由だから、普回向というのは、他を利するという意味と、自己中心的な私から解放されるという自分の修行の目的も同時に成立していくことになります。

 

 

在家略回向

仰ぎ冀くは三宝、俯して照鑑を垂れたまえ。上来〇〇経を諷誦す、集むる所の功徳は、当家家門先祖代々一切精霊、六親眷属七世の父母、三界の万霊等に回向し、報地を荘厳せんことを

(あおぎこいねがわくはさんぽう、ふしてしょうかんをたれたまえ。じょうらい〇〇をふじゅす、あつむるところのくどくは、とうけかもんせんぞだいだいいっさいしょうれい、ろくしんけんぞくしちせのぶも、さんがいのばんれいとうにえこうし、ほうちをしょうごんせんことを)

 

「仰ぎ冀くは」(あおぎこいねがわくは)

普回向の「冀くは」(ねがわくは)をもうちょっと丁寧な言い方にして、丁重な形にしています。

 

「三宝」(さんぽう)

仏法僧のことで、「仏」は仏陀、「法」は仏陀とその教え、「僧」は、その教えを基に成立している修行者の団体を意味しています。

 

「俯して」(ふして)

上から見下ろしてという意味で、仏陀とその法と出家教団という尊い宝に対して、自分の高い存在出会って見上げる存在だから、「俯して冀くは」(ふしてねがわくは)に「仰ぎ」(あおぎ)がついています。

 

「照鑑を垂れたまえ」(しょうかんをたれたまえ)

どうか私を観てくださいという三宝へのお願いになります。「照鑑」(しょうかん)の鑑は観る、照は照らすの意味だから、三宝は、光を放つ存在であるという前提があります。真っ暗闇とか、薄闇にある私を光り照らし出してください。そして、照らし出されはっきりとした姿である私を、ちゃんと観てくださいと、お願いしている文になっています。

 

「上来〇〇経を諷誦す」(じょうらい〇〇きょうをふじゅす)

この〇〇は修証義を読んだ後には、「上来修証義を諷誦す」(じょうらいしゅしょうぎをふじゅす)という風に〇〇に直前に読んだ経典の名前を入れます。「上来」(じょうらい)は、先ほど、「諷誦」(ふじゅ)は、声を出して読みましたということです。その結果〇〇に入った経典を諷誦することによって、自分のところに功徳を集めました。

 

「集むる所の功徳は」(あつむるところのくどくは)

その集めた功徳をどうしたいのかという話になった時に、「当家家門先祖代々一切精霊、六親眷属七世の父母、三界の万霊等に回向し」(とうけかもんせんぞだいだいいっさいしょうれい、ろくしんけんぞくしちせのぶも、さんがいのばんれいとうにえこうし)という、長々と言ったリストの対象に対して届けられますように、というのが「回向し」になります。

 

「当家家門先祖代々一切精霊」(とうけかもんせんぞだいだいいっさいしょうれい)

仏壇に祀られてある方々ということになるので、仏壇の前で読む時は、在家略回向になります。「一切精霊」(いっさいしょうれい)とは、もともと先祖霊の世界というのは、先祖霊の世界に転生した先祖がいるわけで、全員がそこに転生するとは限らず、精霊に転生しているケースや、また人間に生まれているケースも多いので、自分の仏壇に祀られてある御先祖の中で、先祖霊の世界に転生して見守ってくれている先祖霊の方々、というのが「当家家門先祖代々一切精霊」(とうけかもんせんぞだいだいいっさいしょうれい)という事になります。

 

「六親眷属七世の父母」(ろくしんけんぞくしちせのぶも)

自分から六等親くらいの広い親戚、血縁というのが、「六親眷属」(ろくしんけんぞく)、眷属というのは、特定のグループに所属しているグループのことを眷属といいます。「七世の父母」(しちせのぶも)とは、自分からさかのぼって七代先までの父と母のことです。七代より先になると実質、殆ど人類全てに広がってしまいます。

 

 

「三界の万霊」(さんがいのばんれい)

普通仏教で三界というのは、欲界、色界、無色界の世界のことをいいます。

「欲界」・・・・欲望の世界。六道輪廻する地獄から畜生、餓鬼、人間、阿修羅、天界この6つの世界が欲望によって転生する世界だから「欲界」になります。

「色界」・・・・欲界の神々を超えて、欲望をきちんと乗り越えた神聖な神々の世界が「色界」です。ただ、その世界でもまだ、形ある生存に執着しているので、その神々はまだ形を持っています。逆に言えばそれ以外の煩悩は、もう無くなっていることになります。

「無色界」・・・形ある生存の欲望すら乗り越えた形無い純粋意識体の神々の世界です。

解脱悟りを最終段階とした経典は、欲界、色界、無色界すら乗り越えた境地が、解脱悟りだといっています。そういうレベルの霊的生命体に対しても、回向は可能だという考えで、一切衆生の最も幅広い対象の指定が、三界の万霊とうことになります。だから、ブッダになっていない生命体で、存在する全ての生命体が「三界の万霊」(さんがいのばんれい)になります。

 

 

「報地を荘厳せんことを」(ほうちをしょうごんせんことを)

「報地」(ほうち)とは、報身(ほうしん)の仏陀が存在するところです。

報身(ほうしん)とは報いる身体の意味で、仏陀には、仏陀が衆生を救済のために活動をする時は、報身法身応身という3つの身体で活動すると考えられています。

色界に対応するのが、報いる身体「報身」で、無色界に対応するのがダルマの「法身」で、「応身」は、欲界に対応するという考え方もありますが、経典によって諸説あります。ただ、色界の最上位には救済者(救済する偉大な魂方が集まっていて、そこからたまには地球に身体を持って来たりすることが起こるという立場に立つ経典もあります。

「荘厳」(しょうごん)とは、飾りたてるという意味です。報身が存在する色界の最上位に存在する神々の地が、飾りたてるという行為が、結局は自分がそういう自分のためだけに功徳を使わずに、全ての生命体に使おうとする、その心の働きこそが、その世界の神々が喜ぶ捧げ物であり、飾りであるということになります。

欲望の神々は欲望を満たすのが喜びですが、色界の最上位の神々は、結局多くの衆生が自分のエゴを乗り越えて、他のために生きるという以外に殆ど喜ぶことがないので、それ以外に喜ばせる方法はありません、ということになります。