在家略修証義

もともと修証義は、曹洞宗の開祖である道元禅師が執筆した仏教思想書95巻からなる「正法眼蔵」という膨大な分量のテキストから、修証義という形で抜粋されたもので、明治時代に、二大総本山である永平寺と総持寺の館長が二人で最終的に決定して成立しています。その修証義をさらに仏教の在家修行者向けに、抜粋して分量を減らし、全ての仏教宗派に共通する基本的なものだけを残したものが、この在家略修証義です。在家略修証義は、仏教の基本中の基本だけを残していますので、仏教のどこの流派を修行していてもこの部分は共通で、基本的に宗派を問いません。チベット仏教、スリランカ仏教、中国の禅でもそれが仏教である限りは、修証義から抜粋されている部分の内容が、それらの仏教の教えと違うことはありえません。

宗派を問わないばかりか、基本中の基本しか残ってないので仏教という枠を超えて、解脱悟りを最終段階とした宗教の基本が書かれている教科書のようなものとなっています。

例えば、インドの聖者アンマのところへ行こうが、ダライ・ラマ法王の所へ行こうが、日本ヴェーダンタ協会へ行こうがどこに行ってもこの抜粋した部分の教えは、それらの団体の教えとぶつからないと言う基準で抜粋されています。

修証義それ自体は、曹洞宗の禅の修行とか禅の悟りの特徴が入っている部分も結構あり、小乗仏教に対する大乗仏教の優位性を感じさせる部分も少しは混じっています。でも小乗仏教という言い方は、自分は大乗で偉くて、『あなた方は小乗だ』というちょっと堕落したプライドが混じっている場合の意識状態です。小乗と言われ名指しされているスリランカ仏教から見れば、君たちが間違っているだろう、みたいな争いの元になります。ですから、テーラワーダ仏教から見ても文句の無い、一番基本中の基本だけを選んで、論争が生じない抜粋内容となっています。

 

修証義は、鎌倉時代に書かれたものなので、日本語ではありますが現在ではなじみの無い言葉や表現が使われています。この在家略修証義を抜粋し作られた、私が師事している先生より解説をいただいた物を、少しずつブログに残していこうと思います。