在家略修証義解説 「 開教偈」

開教偈というのは、最初に唱える韻を踏んだ言葉で、内容的には、祈りの言葉みたいな文です。日本の仏教の多くのところで共通に使用されていて経典を読誦するときに、この開教偈を唱えてから経典を読みます。

 

 

開教偈

 

無上甚深微妙法 むじょうじんじんみみょうほう

 

百千万劫難遭遇 ひゃくせんまんごうなんそうぐう

 

我今見聞得受持 がこんけんもんとくじゅじ

 

願解如来真実義 がんげにょらいしんじつぎ

 

 

無上甚深微妙法むじょうじんじんみみょうほう)

無上(むじょう)・・・上が無い、だから最高の

甚深(じんじん)・・・甚(はなはだ)深い

微妙(みみょう)・・・微細で精妙である

法(法)・・・・・・・仏法の法

仏法というのは、最高で甚だ深淵でとても精妙な教えですとここで言っています。

 

百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)

百千万劫(ひゃくせんまんごう)・・・劫は、時間の単位

ここでいっているのは、具体的な数字では無くて、多い数のという意味になります。1刧がどれくらいの時間かというのは、経典によって色々説や、使い方があります。短くても何千年とか、多い場合は宇宙が1回生まれて壊れるまでの時間というのもあります。それが百とか千とか1万回繰り返されるというのが、百千万劫のことで、それくらい膨大な長い時間ということです。

難遭遇(なんそうぐう)・・・・・・・遭遇する事が難しい

だから、最高で深淵で精妙な仏法というのは、膨大な時間の中を輪廻転生していく中でも、出逢うことは大変難しいのだといっているのがこの行になります。

 

我今見聞得受持 (がこんけんもんとくじゅ)

にも関わらず、

我(が)・・・・私が

今見聞(こんけんもん)・・・・今、見て聞いたりする

経典を読んだり経典についての解説を聞いたり、または、経典を読誦するのを聞いたりというのが、見聞。

得受持(とくじゅじ)・・・・・受持することを得る

受持というのは、見聞した後にその経典を受け入れて、その経典に基づいて生きようとするということが、受持。いくら見てもいくら聞いても、こういう教えがあるのですね、で終わったら、見聞はしたけれど受持はしていない事になります。だから、深淵な仏法というのは、深淵であるが故に大変出逢うことが難しい、にも関わらず私は、今、それを聞いてそれを受け入れた、というのが我今見聞得受持までの3行です。

 

願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

解如来真実義を願う、ということです。

願解(がんげ)・・・・・・・・・理解することを願う

如来真実義(にょらいしんじつぎ)・・・如来の教えである仏法の真実の義、本当の意味

如来の教えである仏法の真実の義、本当の意味を理解できます様にという、ここは祈りであり、請願であり、お願いになります。

 

最初の無上甚深微妙法というのは、自分が読む経典に対する感嘆、褒め讃える言葉を最初に使っています。

見聞し得受持というのは、経典を聞いたり見たりして知識として受け取るのではなくて、受持というのは、それに元づいて自分の人生を生きようと決めましたという決意表明になります。決意表明しても、聞いた経典の内容がちゃんと理解できないとそれに元づいて生きるのは出来ないけど、果たして自分は出来るのだろうか、そういう問題が出てくるので、だからどうか私がこの経典の本当の意味あいを理解出来ますようにという祈りを捧げて終わりになります。最初の2行が賞賛、3行目が決意表明、4行目が祈りになっていて、短い4行ですが、重要な内容になっています。